少なくとも、西暦400年頃にはサーフィンの原形のようなものが存在していたと考えられているが、はっきりとは分かっていない。航海術に優れた古代ポリネシア人が、漁の帰りにボートを用いて波に乗る術(サーフィング)を知り、そこから木製の板に乗る様になった、というのが最も有力な説とされている。
サーフィン史家ベン・フィニーの研究によると、サーフィンは広くポリネシア全域に普及しており、東はイースター島、西はニューギニア、北はハワイ、南はニュージーランドに及んでいたとのことである。ちなみに、日本にも「板こ乗り」というものがあったが、ベンは知らなかったようだ。
古代ポリネシア民族については、決闘した勇者たちの話や、山の部族に嫁いだためにサーフィンができずに悲しんだ女性の話など、いろいろな話が伝わっている。さらに、サーフィンは古代ポリネシア民族の儀式にまで登場したりと、この文化の中心的存在にまで上り詰めていった。
ヨーロッパ人で初めてサーフィンを目撃したのは、イギリス人の探検家ジェームス・クック船長だと言われている。クックは、タヒチとハワイでサーフィンを目撃し、そのことを航海日誌に書き残している。その後、これら島々にキリスト教宣教師たちなどヨーロッパ人が移り住むようになる。宣教師たちは、布教にあたってポリネシアの文化は野蛮であるとみなし、文明化を理由に彼らの文化の一部であったサーフィンを禁止し、さらにサーフボードを取り上げて焼いてしまった。こうして、ポリネシアにおけるサーフィンは近代において一度終焉を迎えた。
湘南
「湘南」という名称は、各方面で多種多様に使用されている極めて曖昧な言葉であり、それを一義的に定義できるものではないが、おおむね 鎌倉・江の島 周辺を指す地域名と捉えることも出来る。鎌倉、江の島などは観光資源も豊富で夏を中心に多くの観光客を集める。映画、ドラマ、歌の題材などマスコミにより造り上げられた良好なイメージ「海・太陽・若者」などから、その範囲が拡大される傾向にある。
湘南の由来として、以下のようなものが挙げられる。
神奈川県付近における「湘南」の語の使用例は、大磯を中心とした海岸線が中国湖南省洞庭湖の南岸、「瀟湘湖南」に似ているとされ[要出典]、またこの地域は相模国の南部にあたるため佳字を当てる意味もあって[要出典]、当初は相模川西岸に限定された呼称であったが、いつしか相模湾に面した地域一帯を指すようになった。現在では相模川西岸(西湘地区)に限定して使用することは殆ど無い。1664年頃に小田原の崇雪というういろうの商人が大磯の鴫立庵に建てた石碑に「著盡湘南清絶地」と刻んだものが、その由緒としては最古のものである。この石碑は複製品が作られて鴫立庵の庭にあり、本物は大磯町が管理している。
明治時代に湘南を冠する事業所が、相模川西岸の地域に創立された。 明治維新によって当時の西欧の流行であった海水浴保養が日本にも流入し、逗子や葉山、鎌倉、藤沢などの相模湾沿岸が海水浴に適した保養地として注目されて富裕層など特権階級者の別荘地となり、現代の「湘南文化」の礎となる風俗文化が生まれた。1897年に赤坂から逗子に転居した徳冨蘆花が逗子の自然を國民新聞に『湘南歳余』として紹介、翌年1898年の元日から大晦日までの日記を『湘南雑筆』として編纂し随筆集『自然と人生』(1900年)を出版した。蘆花がこの随筆の中で描写した自然の一例として、逗子から相模